「フジテレビの天皇」──そう呼ばれる男がいる。
日枝久、87歳。フジサンケイグループ元会長として、日本の放送業界に半世紀以上にわたり君臨してきた人物だ。
1980年、42歳で編成局長に抜擢され、「楽しくなければテレビじゃない」のキャッチコピーで視聴率三冠王を達成。
1988年に社長、2001年に会長に就任し、フジテレビの黄金時代を築いた。
しかし、日枝氏の影響力は放送業界にとどまらない。歴代首相との親交、総務省への影響力、そして財界での存在感。
日枝氏はメディアと権力が交差する場所に、常に立ち続けてきた。
2025年、中居正広の女性トラブル問題で再び注目を集める日枝氏。
第三者委員会の報告書は「日枝氏が人事を決めていた」と指摘し、その説明責任が問われている。
日枝久とは何者なのか。その経歴、政治家との関係、そしてメディア帝国の実態を追う。
日枝久は何者?経歴と基本情報

日枝久のプロフィール

https://news.yahoo.co.jp/
日枝久(ひえだひさし)氏は1937年12月31日、東京府(現・東京都)に生まれた。
2025年10月現在、87歳。東京都立杉並高等学校を卒業後、早稲田大学教育学部社会科を卒業し、1961年にフジテレビに入社した。
現在は、フジ・メディア・ホールディングスおよびフジテレビジョンの取締役相談役を2025年3月27日に退任。
ただし、フジサンケイグループ代表の座には現在も留まっているとされる。
家族構成は、妻の日枝加寿子氏と、息子の日枝広道氏の3人。
妻の加寿子氏は東洋電機製造の元常務・滝沢七郎氏の次女で、青山学院短期大学を卒業している。
息子の広道氏は大手広告代理店の電通に勤務し、局長職を務めている。
日枝氏は中学時代、ガールフレンドの誕生日会で当時実験段階だったオシロスコープを見て、「テレビの時代が来る」と聞かされたことが、後のキャリアに影響を与えたという。
異例のスピード出世
日枝久氏の人生は波乱に満ちていた。大学では教職課程を履修しており、当初は教員かジャーナリストを志望していた。
しかし、教育実習先の小学校で職員室の雰囲気に嫌気がさし、教員になることを迷っていた。
1960年7月、大学のイチョウの木の下のベンチでまどろんでいた日枝氏に、偶然通りかかった就職課の先生が「開局したばかりのフジテレビが実習生を募集している」と声をかけた。
これがきっかけとなり、フジテレビの実習に応募し、1961年に入社した。
しかし、入社後の日枝氏の道は平坦ではなかった。
労働組合の結成に奔走し、組合書記長として社員の待遇改善に尽力したため、「反体制派」とみなされ、出世コースから完全に外れた。
転機は1980年だった。
当時フジテレビ副社長だった鹿内春雄氏が「軽チャー路線」という若者向けの大胆な編成方針を打ち出し、日枝氏を42歳という異例の若さで編成局長に抜擢した。
その後の出世は加速する。1983年に取締役、1988年に鹿内春雄氏の急逝を受けて代表取締役社長に就任。
社長在任期間は13年に及んだ。2001年には代表取締役会長兼CEOに就任し、2017年まで会長職を務めた。
「フジテレビの天皇」と呼ばれる理由
日枝久氏が「フジテレビの天皇」と呼ばれる理由は、その絶対的な人事権にある。
2025年の第三者委員会報告書は、「日枝氏は、フジテレビとフジ・メディア・ホールディングスの代表取締役会長と代表取締役社長というトップ人事を決めていた」と明記した。
さらに「すべて『××階で日枝氏が決めている』という指名プロセスのブラックボックス化を招いている」と指摘している。
日枝氏自身も2017年のインタビューで、フジテレビの人事について詳細に語っている。社長人事から局長人事まで、日枝氏の意向が強く反映されてきたことは明らかだ。
87歳となった2025年10月現在も、日枝氏はフジサンケイグループ代表の座を保持しているとされる。
フジテレビとフジ・メディア・ホールディングスの取締役相談役は2025年3月27日に退任したが、その影響力は完全には消えていない。
日枝久とフジテレビの黄金時代

1982年、視聴率三冠王の達成
1980年、42歳で編成局長に就任した日枝久氏は、フジテレビに革命を起こした。
1982年3月、日枝氏は「ニューテレビ宣言」を提言した。この中で、編成が作るタイムテーブルこそがテレビ局の商品であり、「テレビは編成が肝要」という考え方を打ち出した。
日枝氏が掲げたキャッチコピーが「楽しくなければテレビじゃない」だ。それまでの硬派な報道・教養番組重視の路線から一転し、徹底的にエンターテインメント路線に舵を切った。
その結果、フジテレビは1982年に年間視聴率三冠王(ゴールデン・プライム・全日)を初めて獲得した。その後、1993年まで12年間にわたり三冠王を維持した。
日枝氏の編成改革により、報道局所管のアナウンス室が編成制作局に移管され、女性アナウンサーのバラエティ番組での起用が当たり前となり、後の女子アナブームに繋がった。
お台場移転と上場

1997年3月10日、フジテレビは東京・新宿区河田町から、お台場(江東区青海)への本社移転を実現した。
設計は丹下健三、巨大な球体展望室を持つ象徴的な建物だった。
この移転を主導したのが、当時社長だった日枝久氏である。お台場という未開発のウォーターフロントに移転することで、フジテレビは単なる放送局から「観光スポット」へと変貌した。
さらに1997年8月8日、日枝氏はフジテレビジョンを東証一部に上場させ、パブリック・カンパニー化を実現させた。
1992年のクーデターと権力掌握
日枝氏の権力基盤は、1992年のクーデターで確立された。
1988年、日枝氏の後ろ盾であった鹿内春雄氏が43歳で急逝。
その後、春雄氏の義理の弟である鹿内宏明氏がフジサンケイグループ議長に就任した。
しかし、宏明氏のワンマン経営が周囲との軋轢を生んだ。
1992年7月、日枝氏は産経新聞社の羽佐間重彰社長らとともに宏明氏を追放した。
この勝利により、日枝氏はフジテレビだけでなく、グループ全体を掌握する道を開いた。
2003年7月、日枝氏は羽佐間氏の後任として、フジサンケイグループ代表に就任した。
視聴率低下と批判
しかし、2011年、フジテレビは23年ぶりに年間視聴率三冠王の座を日本テレビに明け渡した。
その後、視聴率は低迷を続け、現在に至るまで回復していない。
2011年には、「韓流ゴリ押し」問題で視聴者から批判が殺到し、8月21日にはお台場のフジテレビ本社前で大規模なデモが行われた。
日枝氏の強大な影響力は、社内の風通しを悪くし、新しいアイデアが生まれにくい組織を作ったとの指摘もある。
日枝久と政治家の関係──権力との接点

https://www.nikkansports.com/
歴代首相との関係
日枝久氏の大きな特徴は、歴代首相との接点を持ち続けてきたことだ。
複数の報道によれば、日枝氏は故安倍晋三元首相との親交が深かったとされる。

https://www.nikkan-gendai.com/
2022年7月、安倍元首相が銃撃されて亡くなった際、日枝氏は遺体と向き合ったと報じられている。
また、過去の首相動静によると、日枝氏は時の首相とたびたび会食していたことが確認できる。
ただし、これらの会食の具体的な内容や、政策への影響については公開されておらず、推測の域を出ない。
総務省と放送免許
放送事業は「放送法」に基づき、総務大臣が免許を認可する制度だ。
放送免許は5年ごとに更新が必要で、更新時には総務省の審査を受ける。
このため、テレビ局にとって総務省との関係は極めて重要だ。
日枝氏が総務省とどのような関係を築いてきたかについては、具体的な記録は公開されていない。
民放連会長としての活動
2003年4月から2006年3月まで、日枝久氏は日本民間放送連盟(民放連)の会長を務めた。
民放連会長として、日枝氏は「地上波放送のデジタル化」と「放送と通信の連携」という課題に取り組み、その舵取り役を担った。
2011年7月24日のアナログ放送終了、デジタル放送への完全移行というプロセスで、日枝氏は総務省との調整役を務めた。
日枝久と財界──経済界での立場
フジサンケイグループの経済規模
日枝久氏が代表を務めるフジサンケイグループは、巨大なメディアコングロマリットだ。
フジ・メディア・ホールディングスの2013年3月期の連結売上は6,320億円だった。
これは、日本テレビの3,264億円など他局と比べ、事業規模で群を抜いていた。
傘下には、フジテレビジョン、産経新聞社、ニッポン放送、BSフジ、サンケイビルなど、多数の企業がある。
ライブドア事件──2005年の買収防衛戦

https://www2.nhk.or.jp/
2005年、日枝氏の経営手腕が最も試された事件が起きた。
ライブドアによるニッポン放送株の大量取得だ。
2005年2月8日早朝、堀江貴文氏率いるライブドアが、ニッポン放送株の約35%を市場外取引で取得した。
当時、フジテレビはニッポン放送の筆頭株主だったが、持株比率は約22%にとどまっていた。
ニッポン放送は、フジテレビの株式を約13%保有していた。
つまり、ニッポン放送を支配すれば、フジテレビの経営にも影響を与えられる構図だった。
日枝久氏は、この買収に激しく反発し、「放送の公共性」を盾に防衛に乗り出した。
最終的に、2005年4月18日、フジテレビとライブドアは和解し、ライブドアが保有するニッポン放送株をフジテレビに売却することで合意した。
この経験を踏まえ、日枝氏は2008年に持株会社制に移行し、フジ・メディア・ホールディングスを設立した。
「日枝チルドレン」──後継者たちへの影響

https://topics.smt.docomo.ne.jp/
港浩一(元フジテレビ社長)
港浩一氏は1952年生まれで、1976年にフジテレビに入社した。
プロデューサーとして『とんねるずのみなさんのおかげです』などのヒット番組を手がけた。
2022年6月、港氏は代表取締役社長に就任した。
しかし、2023年6月に中居正広問題を把握したにもかかわらず、コンプライアンス部門に報告せず、問題が表面化した。
2025年1月27日、港氏は引責辞任した。
その後、2025年8月28日、フジテレビは港氏と大多亮元専務に対し、50億円の損害賠償請求訴訟を東京地裁に提起した。
大多亮(元フジテレビ専務)
大多亮氏は1957年生まれで、1980年にフジテレビに入社した。
プロデューサーとして『笑っていいとも!』『めちゃ×2イケてるッ!』などに関わった。
2016年、大多氏は関西テレビ放送の代表取締役社長に就任した。
中居正広問題では、港浩一氏から連絡を受けたものの、適切な対応を取らなかったとされる。
2025年1月、フジテレビ専務を辞任。2025年8月28日、港氏とともに提訴された。
清水賢治(現フジテレビ社長)

https://article.auone.jp/
清水賢治氏は1962年生まれで、1985年にフジテレビに入社した。
営業・経営管理部門を中心にキャリアを積んだ。
2025年1月28日、清水氏は港浩一氏の後任として、代表取締役社長に就任した。
清水氏の社長就任も、日枝久氏の意向が働いたとの指摘がある。
第三者委員会報告書は「日枝氏が社長人事を決めていた」と明記している。
中居正広問題と日枝久の責任

https://jisin.jp/entertainment/
中居正広問題の経緯
2024年12月、週刊文春が元タレントの中居正広氏と女性との性的トラブルと、フジテレビ社員の関与を報道した。
港浩一社長(当時)は2023年6月にこの問題を把握していたが、コンプライアンス部門に報告せず、中居氏の番組を継続させていた。
2025年1月、問題が表面化し、スポンサー企業が次々にCM出稿を見合わせる事態となった。
第三者委員会の報告と日枝氏への指摘
2025年、フジ・メディア・ホールディングスが設置した第三者委員会は調査報告書を公表した。
報告書は、中居氏から女性への性暴力がフジテレビジョンの「業務の延長線上」だったと認定。企業風土がハラスメントや人権侵害につながったと指摘した。
さらに報告書は、日枝氏について以下のように言及した:
「日枝氏は、フジテレビとフジ・メディア・ホールディングスの代表取締役会長と代表取締役社長というトップ人事を決めていた」
「日枝氏が役員人事に強い影響力を持っている」
「すべて『××階で日枝氏が決めている』という指名プロセスのブラックボックス化を招いている」
報告書公表後の記者会見で、第三者委員会委員長の竹内朗弁護士は、日枝氏の説明責任について問われ、「日枝さんに説明責任があるかないかと言えば、あるという答えになるのかと思う」と述べた。
日枝氏の「沈黙」と退任
中居正広問題が報じられた後、日枝久氏はメディアの取材を一切受けていない。
フジテレビは3度にわたって日枝氏に取材を申し込んだが、応じなかったとされる。
2025年1月27日の記者会見でも、日枝氏は出席しなかった。フジテレビ労働組合は、日枝氏の出席を求める意見書を提出していたが、実現しなかった。
2025年3月27日、フジテレビとフジ・メディア・ホールディングスは取締役会を開き、日枝久氏の取締役相談役からの退任を決定した。
ただし、日枝氏はフジサンケイグループ代表の座には留まっているとされる。
日枝久の年収・資産と家族

推定年収と株式保有
日枝久氏の年収について、フジ・メディア・ホールディングスの有価証券報告書から一部が確認できる。
複数の情報源によれば、会長時代の年収は以下のように推定されている:
- 2018年3月期: 1億700万円
- 2017年3月期: 1億5,200万円
- 2016年3月期: 1億5,800万円
- 2015年3月期: 1億7,400万円
- 2014年3月期: 1億7,400万円
ただし、これらは推定値であり、正確な金額は公開されていない。
また、2024年6月時点で、日枝氏はフジ・メディア・ホールディングス株を23万3千株余り保有していたと報じられている。
家族構成

日枝久氏の妻は日枝加寿子氏。
東洋電機製造の元常務・滝沢七郎氏の次女で、青山学院短期大学を卒業している。
2025年10月現在、80代後半と推測される。
息子の日枝広道氏は、大手広告代理店の電通に勤務し、2024年6月時点で局長年次の役職に就いていた。

2025年10月現在、年齢は50代半ばと推定される。
父・日枝久氏がメディア界の重鎮、息子が広告業界の幹部という「メディア一族」を形成している。
まとめ──日枝久がフジテレビに残したもの

功績──黄金時代を築いた編成の天才
日枝久氏の功績は、疑いようがない。
1980年、42歳で編成局長に抜擢され、「楽しくなければテレビじゃない」のキャッチコピーでフジテレビの黄金時代を築いた。
1982年に初めて視聴率三冠王を獲得し、1993年まで12年間にわたり民放トップの座を維持した。
『オレたちひょうきん族』『笑っていいとも!』など、時代を代表する番組を次々と生み出し、テレビ文化に大きな影響を与えた。

お台場への本社移転、東証一部上場、持株会社制への移行など、経営者としての手腕も高く評価された。
日枝氏がいなければ、現在のフジサンケイグループは存在しなかっただろう。
罪──長期支配がもたらした組織の腐敗
しかし、日枝氏の長期支配は、深刻な問題も生んだ。
2025年の第三者委員会報告書は、「日枝氏が社長人事を決めていた」「指名プロセスのブラックボックス化を招いている」と明記した。
強大な人事権は、社内の風通しを悪くし、イエスマンばかりが出世する構造を固定化した。
中居正広問題は、この組織体質が生んだ悲劇だ。
コンプライアンス意識の欠如、被害者への配慮の欠如。
日枝氏が築いた体制の限界が露呈した。
2011年以降の視聴率低迷も、日枝体制の硬直化が一因とされる。
時代の変化に対応できない組織を作ってしまった責任は、重い。
87歳の沈黙──説明責任を果たさない元トップ
中居正広問題が報じられた後、日枝久氏はメディアの取材を一切受けていない。
2025年1月27日の記者会見にも出席せず、「沈黙」を続けた。
第三者委員会委員長は「日枝さんに説明責任がある」と明言したが、日枝氏は何も語らなかった。
87歳とはいえ、今も取締役相談役の報酬を受け取り、フジサンケイグループ代表の座に留まっているとされる人物が、説明責任を果たさない姿勢は、批判を免れない。
2025年3月27日、日枝氏は取締役相談役を退任したが、それで全ての責任が消えるわけではない。
権力ウォッチの視点

日枝久氏の87年の人生を追うと、一つの真実が見えてくる。
権力は、長く握り続けるほど腐敗する。
本来、メディアは権力を監視する側にいるはずだ。
しかし、日枝氏は自らが権力者となり、37年以上にわたってフジサンケイグループに君臨した。
放送免許を握る総務省との関係、歴代首相との会食、民放連会長としての影響力。
日枝氏は権力と権力の間を渡り歩き、自らの地位を守り続けた。
その結果が2025年の中居正広問題だ。人事権の独占、イエスマンの量産、コンプライアンス意識の欠如。
日枝氏が築いた組織は、人権侵害を見過ごす体質を生んだ。
私たちが問いたいのは、**「誰が日枝久を監視していたのか」**ということだ。
誰も日枝氏を止められなかった。それが、権力の恐ろしさだ。
権力者には、必ず監視が必要だ。政治家だけではない。
企業経営者も、メディアのトップも、例外ではない。
権力ウォッチは、これからも権力を持つ者たちを追い続ける。


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